村上龍『半島を出よ』
前エントリである貴志祐介『新世界より』に引き続いて、今日は村上龍の問題作『半島を出よ』(幻冬舎文庫、2007)のレビュー。
本当は台湾旅行中に読み終えていたんだけど、なんだかんだで感想書きがかなり遅くなってしまった。
関係ないけど台湾で買ってきた鉄蛋(てつたまご)うめえ。
韓国で映画化の計画もあるらしいけど、長さ的に映画よりは連続ドラマとか、あるいはアニメなんかがいいと思うぞ(ちなみにニュースの日付は2006年の4月だ)。
ProductionIGや、現在のFreedom Projectあたりのスタイルでアニメ化した『半島を出よ -Operation "Get out of the Peninsula"-』が見たいね。
ストーリーの概要を記すと、こんな感じ。
2010年、混沌とした世界情勢の中で、右傾化し、国際的孤立を深めていく日本。
小国がツンツンするならまだしも、中途半端に力のある国が非協調的になるのは周りも結構しんどい。
そんな中、国際社会の邪魔者化する日本の一都市である福岡に、ある目的を持って北朝鮮のコマンドー(いわゆる特殊部隊ですな)が上陸。福岡を占領にかかる。
混乱する福岡、そして有効な対策を打ち出せない日本政府。
恐怖の支配する福岡で、社会から疎外されまくったラリラリのテロテロ坊主達が立ち上がる・・・。
この「テロテロ坊主」というのは、作中の人物が、社会から疎外された奇怪な少年達につけたあだ名のようなものなのだが、何がどうテロテロなのかは、彼らのプロフィールを見れば一目瞭然。
この小説は登場人物が半端なく多く、文庫本では7ページが登場人物紹介に割かれているのだが、テロテロ坊主ズ(通称「イシハラグループ」)のプロフィールは結構凄い。
例えば(以下文庫より抜粋。一部書き直し)、「タテノ:16歳。殺傷用のブーメランを操る。13歳の時に土建業者の父親が死体を埋める現場を目撃。」、「シノハラ:18歳。カエルやクモや毒ムカデを大量に飼育している。」、「アンドウ:18歳。13歳のとき、同級生の女生徒を殺害後切り刻む。」、「フクダ:23歳。手製爆弾のエキスパート。・・・15歳のとき、ファッションヘルス店を爆破。」・・・エトセトラ、エトセトラ。
こんな「普通じゃない少年達」が主役級なので、感情移入が難しいという意見もあるらしいのだが、むしろ我々が常識的に持っている(と思われる)感情やらなんやらを、(育った環境のせいで)残酷なまでにタブラ・ラサ(白紙)な彼らが獲得していく過程こそ、この小説の醍醐味なのである。
物語が佳境に突入する寸前の出来事で、私が一番好きな場面をご紹介しよう。
「共感する感覚というのは静かなものなんだ、モリはそう思った。みんな一緒なんだと思い込むことでも、同じ行動をとることでもない。手をつなぎあうことでもない。それは弱々しく頼りなく曖昧で今にも消えそうな光を、誰かとともに見つめることなのだ。」
いかがでしょうか、このイノセンス。
村上龍という人はスゴい人で、我々が少し意味を違えて理解している事柄(ここでは「共感」。そして我々はその理解にささやかな違和感を感じていることが多い)を、ラディカルな描写によって正しい意味で提示してくれるのだ。
そして、上に挙げた「共感」の理解に関しても、過酷な境遇のせいで感情を捨てざるを得なかった「テロテロ坊主」達を用いることで、効果的かつ正確に描写している。
つまり、我々の持つ色々な感情を持たない、白いキャンバスの如き「テロテロ坊主」が「共感」という感情を得るとき、その「共感」はノイズを受けない純正なもののはずである。
これに対して、既に色々な「ノイズ」を得ている我々が「共感」するとき、その「共感」は他の感情・経験・意識の干渉を受けて、一定程度変質する。常日頃、「変質」した感情を経験している人間にとって、「テロテロ坊主」から見た初々しい感情の、なんと綺麗なことか。
この作品は、日本への警告であると同時に、テロテロ坊主達が変化(成長)していくストーリーでもあるのだ。
そして、変化するのは何もテロテロ坊主だけではない。
日本という異界にやってきた北朝鮮の特殊部隊も、有事を経験したことの無い日本の官僚達も、名の無い福岡市民もまた、この事件によって「常識」が必ずしも「常識」でないことを思い知ることになる。
おそらくこれは読者たる我々にも当てはまることで、平和と日々の安全・生活が「常識」だと思っている日本人は一読の価値があるだろう。
もちろん、読むか読まないか、「それは、お前の自由だ」。
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