2007年11月25日日曜日

続・ウェブ時代をゆく

この前のエントリの続きです。


感想目次は以下の通りであって、
1.インターネットはおもしろいね
2.Googleの次はないんかね
3.理系は変わるかもしれないけど文系ってそんなに変わらないかもね
4.そして僕はどうしたらいいんだろうね
先のエントリでは「1.インターネットはおもしろいね」と「2.Googleの次はないんかね」を扱ったわけだから、今日は残りを頑張って書く。

まず「3.理系は変わるかもしれないけど文系ってそんなに変わらないかもね」。
このことについては、本書の一節である『「文系のオープンソースの道具」が欲しい』でも多少語られているのだが、しかし本書での「文系」とは「プログラミングとかそういう意味ではなくて」ぐらいの意味合いであって、たとえば僕の所属している「法学部」のような、「社会科学」とでも置き換えられる「文系」ではないように思える。
梅田サンは、「ウェブの進歩によって、どの学問領域でも、「集団の叡智」その他ウェブが生み出す効能により、知的活動が増進される(要旨)」というようなことを言っているが、はたしてこれが上で挙げた「社会科学」たる「文系」にも言えるのかどうか、疑問である。
まだ学問の道を進み始めたばかりのヒヨッコ風情が知った口をきくのがおこがましいということは充分承知だが、それでも言って損するものじゃなし。言ったら得するかもしれぬ。

第一の理由として、「文系」は「理系」より色々と拡散していることが挙げられよう。
たとえば、理系であれば、一つの問いや目的(たとえば「フェルマーの最終定理を解きたい」)に対して、一つあるいはそれ以上の、客観的に正しい解答が得られやすい(ように文系の僕からは見える)のだが、文系ではそうもいかない。
法学部なのでそれ関連の例えしか出せないが、「リベラル」と「リバタリアン」との政治的見解の相違に対して、「どちらがこういう理由で絶対的に正しい」とは言えないだろう。
言えることといえば、どちらかが相対的にマシであるという事ぐらいである。
文系の学問の役割の一つは、終局的に解決不可能な問題の妥当な解決策を模索する、あるいは合意を形成する、といったようなものであり、これらの学問領域をウェブ上に乗せたとしても、議論の増進こそあれども、知的活動の増進があるかどうかは分からないのではないだろうか
熟議民主主義だったかなんだったかの思想系列に属するならまだしも、「たくさん議論すること」と「たくさん成果が得られること」というのは区別して考えるべきだと僕は思うのである。

第二の理由は、「文系」は「理系」以上に「経験その他」がモノを言うから、ということである。
本書の冒頭には「法律にも学習の高速道路ができている、らしい」旨の記述があるが、果たしてこれは本当だろうか。
プログラミングや物理学の世界において「学習の高速道路」が敷かれているのは容易に想像できる。
だが、法を学ぶにおいては、もちろん当該法律の条文(これはネット上で無償で入手できる)以外にも、膨大な数の判例(無償で入手できるものは限られている)や、数多ある学説とその対立構造(そうそうネットでは入手できない)、他者との対話(掲示板でどこまでできるかは疑わしい)など、ウェブ上では経験しがたいことを経験しなければ、深い理解は得られない。
これらの経験を積むのに最も適した道は、まず間違いなく大学の法学部で法学教育を受け、教師や教科書との対話において知識を積み重ねてゆく道であって、その他にない。
有料の判例・評釈データベースがインターネット経由でアクセスできるようになり、法律を学ぶ際の手間が一つ省けた等の技術進歩はあったかもしれないが、これをもって「学習の高速道路」とは言えないだろう。このような技術革新は、もともとあった「学習の道」としての大学での法学教育の促進であって、その他に道を作り出したわけではない。
もちろんウェブを使用して法律を学ぶ道が全く無いかといえばそうでもないだろうが、その「道」は「高速道路」ではあるまい。一番手っ取り早い道は他にあるはずなのだから。


※・以上について、もちろん文系理系の区別がどこでどれほどできるのかというのも一つの問題だが、そのことについては置いておく。

と、いうわけで、今回のエントリもヤケに長くなり、時計も午前4時を記録したので今日はここまで。
申し訳ないが、「続・続・ウェブ時代をゆく」(最終回予定)に続く。

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