2007年11月18日日曜日

絆のはなし

なんとかゼミの課題(特定継続的役務提供契約の中途解約において、提供済役務の単価として契約時と異なった単価を用いることの当否。具体的にはN●VAの解約時清算規定の適法性について)も明日には片付きそうで、これが終わればひとまず安泰。よかったよかった。

今日のエントリは、前回予告をしておいた伊坂幸太郎×斉藤和義『絆のはなし』(講談社、2007)書評。


この本、「物書き」伊坂幸太郎と「うたうたい」斉藤和義の対談と2人の年表、愛用アイテムの紹介等をコンパクトでオサレにまとめていて、結構絵になる。
対談と年表を載せるだけで本(ハードカバー)になるところがまず凄いのだが、しかし斉藤和義ってそんなに売れているのだろうか。
というのも、そもそも僕自身、この本を買うまで斉藤和義なんて名前さえ知らなかったし、この本を買って読んだあと、ググってディスコグラフィー見ても聞いたことのある曲はないし、YouTubeで彼の曲を聴いても聞いたことの無い曲だし、一体全体誰なんだぜ、彼は。

まあ伊坂幸太郎が出ている、ということで買った本なのだから、評価するなら「対談相手が誰か」ということを度外視し、「対談の内容が面白いか否か」を重視しようじゃないか、と割り切って感想を書くことにする。

この本について言えるのは、第一に「内容量対価格のコストパフォーマンスが悪い」、すなわち価格(1200円)に対して本の情報量が少なすぎるということ。
量がなくても質がありゃあいいじゃないかという意見もありそうだが、しかし(確か椎名誠あたりも同じようなことを言っていた気がするが)対価を取る以上最低限保障するべきコンテンツ量というのはあるわけで、この本がそれを満たしているかどうかは結構疑問である。
しかも対談とか年表とかいった類は重要度の低い情報も多く紛れているわけで、しかも空白が多い。
コンテンツの性格とその量を考慮すれば、伊坂・斉藤の両方大好きな人でもないかぎり、かなりの高い買い物になる予感。だって文庫本2冊買える値段ですし。

それでもあなたがお金持ちであって、本の値段それ自体は度外視できると仮定しよう。問題は時間を割いて読む価値があるか否かという対時間コストへと移る。
本来の書評はここから、ということにもなる。

この点に関しては、まあ内容そのものはそれなりに面白いし、登場人物のどちらか片方しか知らなくてもそれだけで充分楽しめる一冊になっている。
オビの「このゆるかっこよさズルイ!」というのはまさに的を得たコピーであって、いい年こいてこのゆるさ加減を持続しえてる2人のかもし出す雰囲気というか世界観というか、ずるいとしか言いようがない。
「マイペース」とか「いい意味で適当」という言葉が誰よりもよく似合うこの2人、対談するにしても深く考えることなしにその場でサラサラ流れる小川の如く適当に話を流してる感があり、しかしそれにもかかわらず話の内容はユーモアとウィットに富んでいる。
深く考えて話すと口がつっかえ、適当に話せばバカにしてると思われる我が身からすれば、うらやましいかぎりである。
特に伊坂幸太郎なんかは、「大学5年間いましたけど、1年はほとんど小説書いてましたよ」とか、「いやあ映画化のお誘いを適当に受けてたら、もう書いたら映画化ですよねハハハ」的なことを言っており、おそらく普通の人がこういうことを言ったら激しくムカつくのだろうが、むしろ彼の場合は好印象さえ与えてしまうという恐ろしさ。流石。

以上の事情を総合考慮すると、まあ立ち読みで済ませるのが一番賢いかなという結論に行き着かないでもない。
ただ、一冊丸ごとスタンドリーディングで、というのは少々品性がない気がするが。


※ちなみに、実は伊坂幸太郎と僕にはいくつか共通点がある。
その一つは旧帝大法学部ということ。
彼は東北大法学部を出ており、法学部生が主役の小説もいくつかある。(『砂漠』の主人公は仙台にある大学の法学部生だったし、確か『アヒルと鴨のコインロッカー』の主人公もそうだったんじゃないだろうか。)
イニシャルもK・Iで同じだし、『火の鳥』好きでサンボマスターも聞くようだ(cf.『砂漠』)


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