2007年8月11日土曜日

『生物と無生物のあいだ』~「定義をめぐる問い」編

最近話題の、福岡伸一『生物と無生物のあいだ(講談社現代新書)を読んでみた。
著者は分子生物学とかいう学問分野を専攻しており、この本も、そのメインのところは、理系の話であるまあ新書だし、どこまでの専門性があるかは微妙だけど)

ところで僕は一法律学徒であり、世に言う文系である。
よって、以下は、文系が書いた理系の本の感想ということになる。
おそらくその感想は、本来ならばこの本の本質的な感想たり得ないはずであるが、このエントリに書かれることは最近僕がとみに疑問を持っている事柄なので、お付き合いしていただけるのならば、ぜひ


この本のメインテーマは「生命とは何か」、すなわち「生命の定義」である。
この「生命とは何か」という問いに対して、たとえば多くの科学者は「生命とは自己複製を行うシステムである」とか答えたりし、その定義に福岡氏が「動的平衡」とかプラスするわけだが、果たしてこの問いの方法と応答は適切だろうか

別の言い方をするならば、定義とは客観的な真理なのかということである。

そもそも、定義の定義変な表現だが-は、「ある概念の内包を構成する本質的属性を明らかにし他の概念から区別すること(広辞苑)であって、この「区別」あたりから分かるように、「定義する」という営みは、純粋に人為的なものなのではないか。
人為的であるということは、人が(概念として)作り出したものであり、故にそれは、この世の必然として存在しているものではない(数学における定義だとどうなるのか分からん。しかし数学的前提(1+1=2とか)は人為的なもんだよなあ)

このように、「定義」とは、多くの場合、理論を組み立てる際の出発点であるが、完全にアプリオリに与えられているわけではない
このことは、おそらく以下のことを表す。
すなわち、多くの人にとってアプリオリに与えられている「定義」は、理論の前提として用いることができる。一方、多くの人の認識内に齟齬がある定義は、理論の前提として用いることができない
言い換えれば、相手方が主張する「定義」が自分の用いる「定義」と違っていたとしても、「定義の間違い」を理論で否定することはできない
なぜならば、齟齬ある定義は理論の前提にならないからである。

たとえば、僕が「『男』とは、XY染色体を持つ人間のことである」という定義を打ち立てたのに対し、Aさんが「いや、『男』とは、XX染色体を持つ人間だ」という定義を打ち立てたとする。このとき、僕はAさんが「XX染色体を持つ人間が『男』である」と定義することを「理論では」否定することはできない。(普通の人の感覚とは違いますね、とは言えそうだが)

このように考えると、「特定の『定義』をめぐる論争」というのは、分類の利便性向上以外に、おそらくほとんど意味を為さない。
「Aという定義とBという定義、どちらが正しいのか」という論争は、「自分所有の林檎と梨が机の上にあるとして、どちらを食べるのが正しいのか」という論争と同様に無意味である。

では、「生命を定義すること」も、果たしてどれほどの意味があるのだろうか。

ここまでの説に立って、もし「生命を定義すること」が無意味であり、「生命の定義」が真理として存在しないと仮定した場合、一つの疑問が生まれる。
それは、「では、『生物と無生物のあいだ』とされてきたラインは一体なんであるのか」という疑問である。
「自己複製システムの有無」や「動的平衡の有無」といった、もともとは「定義」によって引かれたライン、それは一体何を意味するのか。
結局のところ人間が着目してみたに過ぎない一ラインに過ぎないのか。
それとも、他のラインとは別の、特段の重要性を持つものなのか。
疑問は膨らむばかりである。


なお、この本では「サイエンスと私的な完成」が「幸福に結び」ついている、と茂木健一郎氏に評価されているが、その点については続く。
また、法学と分子生物学の類似点・相違点についても忘れなければ書いてみたいところ。


最後に、ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございました

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