返却その2、そして愛国心への問い
政治学原論レポート「電子政府とその課題」の第2弾が返却された。
「A+の評価を頂いた第一章よりも出来のいいものになっている」と書いたそのレポートの評価は・・・・
残念ながら(?)A(10点満点中10点)だった。しかもA+(10点満点中12点)は別にいて、1位から2位へランクダウンした格好である。
まあそれでも僕は結構なオプティミストなので、今回先生に書いていただいた朱書きにしたがって足りない部分を補足し、気合入れてレポート書けば、また再び1位に返り咲くのもそうそう難しくないと思っている。結論部については、序論部を書き始めたときから頭の中でひたすら練っていたのであり、ついにまとめられると思うとむしろ喜ばしい。
しかし、このレポートの完全脱稿はまた、大学生活2年目前期の黄昏を意味しているのであり、その意味では非情に寂しいものがある。大体僕を「先輩」と呼ぶ人間が出現してくるあたり、なんというか微妙。もうひとつ愚痴るならば、よく留学生にマスター(修士)ですか、と聞かれるのだが、これは何故だろうか。
ここでいきなり話が変わる。
最近、留学生との交流も増え、また、インターネットについて深く考えるようになった。そんな折、「愛国心」てなんだろな、その前提たる「国家(nation state)」って、どれほど意味があるのかな、と疑問が湧いてきた。
インターネットが世界中にクモの巣を張り巡らせることによって、僕は日本にいながらにして世界とつながることができる。タシケントの友達と、日本語と英語の混じったメールのやり取りができる。しかもコストをかけずに。世界中の人々が地図上にアップロードした写真を、Google Earthで見ることもできる。もはや「国境」は、ネットの海に沈んでいる。
ネットだけではない。グローバル化が進み、国と国との相互依存関係が深まっている実世界においても、同じような現象が起こっている(はず)。
このような状況の中で、果たして「僕の住んでいる国」と「君の住んでいる国」を区別する必要があるのだろうか。確かに、その2つは別々に存在しており、統合は不可能に近いかもしれない。しかし、それが「別々に存在している」ということ以外に、その2つを「別々に存在させる」必然性とか、合理性とかいったものを観念できるだろうか。
2つ目。
「国を愛していないのか、愛国心はないのか」と問う人がいるかもしれない。その人に問いたいのは、「では、そこにいう『国』とは何か」。
国土だろうか、民族だろうか、国民か、あるいは体制か。それらのどの1つとして、他と区別して特に愛さねばならないいわれはあるのか。なぜ限定する必要があるのか。すべてではいけないのか。
というようなことを、フォーマルな文章できちんと章立てして、今回のレポートのようにまとめてみたいのだが、法律系ゼミの学生にとってそんな機会はあんまりないし、暇もないのでとりあえず断章としてブログに載せた次第。あんまり本気にしないでね。
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